医学史の世界へようこそ!
このウェブサイトは青木歳幸のページです。とくに医学史に関する話題を提供します。私たち、青木歳幸を代表として、ミヒェル・ヴォルフガング、小川亜弥子、研究協力者海原亮、三木恵里子らは、文部科学省基盤研究Bプロジェクト「佐賀藩・長州藩・中津藩の西南諸藩の医学教育の研究」(2012~15)を立ち上げました。このウエブサイトでは、近世医学教育についての話題をはじめ、医学史に関するさまざまな研究についての情報交換の場をめざしています。
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7月8日(日)電気通信大学において洋学史学会7月例会が開催された。
発表は伊藤真実子(学習院大学)「洋学と博覧会、博物館ー平賀源内・木村兼葭堂・成島柳北ー」
と、菊池悠介(東海大学大学院)「幕末期横浜における茶輸出ー伊勢国竹川・竹口家文書を中心にー」
の2報告であった。
伊藤氏は、日本近代史、なかでも万国博覧会を研究しており、現在は植民地の博覧会をテーマにしている
若手研究者の一人である。
報告は、平賀源内の東都薬品会(第五回)は、公募形式の物産会 約1300余種の出品物、『物類品騭』は本草綱目を踏襲し、めずらしいものを基準としたことが博物学への関心増大へ役だったと述べた。
博覧会的な行事は、1781(天明元年)以降、田村西湖らが、江戸では多紀氏の私設医学校(躋寿館)で毎年のように物産会を開催。寺門静軒『江戸繁盛記』(1832~36、天保3~7)年刊行にも「このころ江戸にはやるもの」として物産会があることをあげている。
物産と情報収集のコレクターとして、木村兼葭堂のコレクションをあげ、幕末の儒学者成島柳北と古銭収集の事例を紹介した。
明治初年の博覧会は、江戸期の寺社仏閣での古器旧物の展示が中心であった。
明治4年の古器旧物類保全の布告(太政官布告第251号)にもとづき、明治5年湯島・・天産物につづいて古器旧物を収集展示した。
古器旧物などを変える方向は1875年内務省報告「其の展列する所も徒に古器玩物に偏し、実用有益の物品に疎かなるの景況」からはじまり、1877年第一回内国勧業博覧会では「珍しき品物たりとも、すべてかたわの鳥獣虫魚又は古代の瓦曲玉書画等の類は此会に出すべからず」として、殖産興業と新奇な製品展示を目標とするようになった。つまり、明治期の内国勧業博覧会は、古器旧物は博物館へ、内国勧業博覧会は先端技術、最新の技術進歩を展示するものとの方向となり、大正期の博覧会は植民地の産物等を展示する方向となった。
菊池悠介(東海大学大学院)「幕末期横浜における茶輸出ー伊勢国竹川・竹口家文書を中心にー」
は、横浜での貿易は生糸売り込み商の研究が中心で、生糸についで輸出の多かった横浜での茶売り込み商の研究で、その流通形態を解明しようとした。
研究史を整理し、1930年代、茶貿易の数量的研究が中心で実態解明にいたっていない。1950年代、伊勢商人の横浜への集団出店の研究が行われたとした。
竹川家・竹口家の研究から、横浜貿易における茶貿易の実態を解明しようとした。
竹川家は、嘉永2年から農村復興をかねて、出身地伊勢での茶園栽培を開始し、嘉永7年段階で茶が貿易の有力商人となることを予測。貿易方法を模索。、竹口家信義はヘボンと出会い、貿易商人の紹介をえた。
横浜の製茶工場を見学、1箱が25斤入り、中国人が紙・箱詰め、印を押している絵を紹介した。
報告後の討論のなかで、文久3年以後は、茶の輸出先はイギリスからアメリカへ変わったこと、
労働者階級への供給であったようであること、上喜撰などもあったが、粉茶が多かったのではないか、
駿遠の茶よりも伊勢茶が幕末には有名になっていたことなどが興味をひいた。
洋学史学会に若手がつぎつぎと登場してきた。頼もしい傾向である。